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白馬岳の魔神◆ハクサンコザクラ(日文)

  白馬岳の魔神◆ハクサンコザクラ

  岳に咲く高山植物のなかに、大桜草(オオサクラソウ)とよぶ花があることは早くから知られている。七月ごろ紅紫色の可憐な花をつけるのだが、そのむかし、花は雪のように純白であったという。

  いつの時代かはわからないが、白馬岳の東のふもと、今の小谷村(おたりむら)に豪壯な屋敷をかまえて栄えた長者がいた。

  この長者のなによりの自慢は一人娘の手巻(たまき)で、美しい雪肌とつややかな黒髪と、さらに愛くるしい黒目とを持ち、十六、七にもなると、遠くから噂を聞いて、

  「どうか、わがせがれをば手巻姫の婿に」

  と訪れてくる者が、ひきもきらなかった。

  むろん長老はそのつど、わしの娘の相手には不足じゃとばかり頭を振って取りあわなかった。でも、娘には娘の心がある。白馬岳に春がめぐってき、ふもとの村々もすっかり新緑に包まれたころ、手巻は小姓姿のやさしげな若者と人目を忍ぶ仲になっていた。

  その若者は殘雪の嶺の向こうへ日が沈んであたりに夕靄がひろがると、どこからともなく、すいと現われた。ふたりは岳樺(だけかんば)の林のなかで逢瀬(おうせ)重ねたが、不思議なことに若者は自分の家も名もあかさず、ただ、

  「いまは言えぬが、いつかわかるだ」

  とだけ答えるのであった。

  しかし、いくら人目を忍ぶつもりでも、せまい山里ゆえ村人たちが見とがめないはずはない。

  「あのお小姓はここらの者でないけん、どこのだれずら?」

  「なんでも、白馬岳のほうから下ってきちゃあ、また山へ帰っていくとい」

  そんな村人たちの聲はほどなく屋敷の下男や下女から長者の耳へ屆いた。近ごろ娘のそぶりを不審がっていた長者夫婦は激しく怒り、親にかくれて氏素性も知れぬ男の誘いに乗るとは何事ぞ、すぐ別れるか、さもなくば人をやって男を成敗するとまで迫った。あらたまって責められてみれば是非もない。手巻は、いっそ戀しいと思いながらも涙にくれて、

  「はい、お許しください。きっと別れます」

  と誓ったのだった。

  その翌日のたそがれどきでるある。もう白馬には初夏がきて、山躑躅(やまつつじ)の盛りも過ぎ、石楠花(しゃくなげ)が咲きそろっていた。

  娘は重い足どりで、いつもの林へ行くと首うなだれて男に言った。

  「おまえさまにはすまないども、ゆえあって毎晩お會いできなくなりました。どうぞ、今夜限りここへはおいでくださいますな」

  このことばを聞くなり、小姓姿の若君はさっと顔色を変えた。いや、それはうそだ、自分のほかに男ができて、わしを遠ざけるつもりなのだと思ったにちがいない。こめかみをピクリと震わせるなり、怒りと悲しみのまじった表情で、

  「よくも、そんな偽りがいえたもんどぉ。女に裏切りの心があれば、男にも呪いがあるでのう。見ておるがいいだ」

  と言って、つめ寄った。

  「おらはけっして、裏切りなど……」

  手巻は、たもとに額をうずめて泣いた。

  だが、そのつぎに異様なものの気配を感じ、顔をあげて若者を見なおすより早く、

  「あ、あぁー」

  と、うしろへ倒れ伏した。

  目の前におったのは、小姓姿の若老などではない。仁王立ちで裂けた口から呪いの炎を吐き散らす、ものすごい山の魔神、大婆王(だいばおう)であった。むかしからふもとの村人たちは、この魔神こそ気短かで荒々しく、狂いだしたら最後、しずめようがないと恐れてきた。

  大婆王は、さっと娘を小脇にひっかかえ、黒雲を呼んだ。

  稲妻が一閃、雷鳴がとどろくと見るまに、その黒雲へとび移り、白馬岳の頂上めがけてかけあがって行った。

  「手巻! 手巻はどこだやぁ」

  長者をはじめ、村人たちがかけつけたときは、もう、すべてが終わっていた。つぎの朝、白馬岳が明けて見ると、お花畑にとび散った手巻の血が、あの可憐な花のつぼみを染めていたのである。

  この年から純白であった大桜草は紅紫に咲くようになったという。

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