この語は韓愈（字は退之、昌黎と號(hào)した。）の「鴻溝を過ぐ」という詩から出たものである。鴻溝というのは今の河南省の賈魯河のことで、そのかみ、秦滅びて天下がまだ統(tǒng)一しない時(shí)、楚の項(xiàng)羽と漢の劉邦（後の高祖）がここに一線を畫して天下を分有した。詩は當(dāng)時(shí)を追懐したものである。竜疲れ虎困じて川原に割ち、億萬の蒼生、性命を存す。

　　誰か君主に馬主を回らすを勧めて、真に一擲乾坤を賭するを成せる。

　　秦末の失政に當(dāng)たって陳渉らが前二〇九年まず叛旗をひるがえし、これに呼応して各地に兵を起す者相次いだが、そのうち、風(fēng)雲(yún)に乗じてもっとも頭角を現(xiàn)したのが項(xiàng)羽であった。歴戦三年、ついに秦を滅ぼした項(xiàng)羽は、前二〇六年、自ら西楚の覇王となり、九郡を領(lǐng)して彭城（江蘇省徐州）に都し、劉邦はじめ功のあった人々をそれぞれ王侯に封じて一応天下に號(hào)令したかに見えた。しかし、ともあれ、名目上の主である楚の義帝を翌年弒してしまったことと、行賞の當(dāng)を失したことは再び天下を混亂に陥れた。

　　則ち、田栄?陳余?彭越らが次々に斉?趙?梁の地で叛亂を起し、しかも、項(xiàng)羽がこれを討っているすきに、漢王劉邦が兵を起して関中の地を併合してしまったのである。

　　由來、項(xiàng)羽のもっとも恐れていた者は劉邦であり、劉邦が敵と視ていた者は項(xiàng)羽である。最初に関中（陝西）を平定した者が関中の王となるのだという義帝の公約を無視され、関中に一番乗りしたにも拘わらず、項(xiàng)羽によって巴蜀の地に封ぜられたことは、劉邦の項(xiàng)羽に対する最大の怨みであったが、今や関中を手中に収めた劉邦は、一応項(xiàng)羽に対して他意なきことを申し送っておいて、著々と力を養(yǎng)い、他日関外へ進(jìn)出する折りを窺っていた。

　　翌年春、項(xiàng)羽は斉に連戦していたが、まだ斉を降すことができなかった。頃合良しと見た劉邦は、楚の義帝のために喪を発し、逆賊項(xiàng)羽を討つことを諸王侯に呼びかけるとともに、五十六萬の兵をひきいて楚に攻め入り、都の彭城を乗っ取ってしまった。

　　項(xiàng)羽はこれを聞いて引返し、彭城の周辺で漢軍を完膚なきまでに叩いたので、劉邦は命からがらケイ陽（河南省ケイ陽県）まで逃げのび、しかも父親と夫人を敵中に殘すという慘めな結(jié)果になり、再び囲まれて、ここをも辛うじて脫出する有様となった。

　　その後劉邦は、韓信が斉を収めるに及んでようやく勢力を増し、また関中から兵力を補(bǔ)給してしばしば楚軍を破り、彭越も梁の地で楚軍を苦しめたので、項(xiàng)羽は各地に転戦せざるを得なくなり、しかも彭越らによって糧道を絶たれたため、兵少く食盡き、進(jìn)退窮して、ついに劉邦と約して天下を中分し、鴻溝より西を漢とし、鴻溝より東を楚とし、劉邦の父親と夫人を帰すことになったのである。

　　時(shí)は漢の四年、前二〇三年であった。項(xiàng)羽は約束ができたので、兵を引いて帰國して行く。劉邦も引上げようとする。それを見て張良と陳平とが劉邦に進(jìn)言したのである。

　　「漢は天下の大半をたもって諸侯も従っておりますが、楚は兵は疲れきって食もございません。

　　これこそ天が楚を亡ぼそうとしているので、飢えているときにやっつけるべきです。

　　今撃たなければ、虎を養(yǎng)って患いを遺すというものです。」

　　そこで劉邦は意を決して翌年楚軍を追撃し、ついに、韓信?彭越らの軍とともに、項(xiàng)羽を垓下（安徽省霊壁県東南）に囲むこととなった。

　　韓愈はこの張良と陳平が漢王を援けた功業(yè)を鴻溝の土地でしのび、まさに天下を賭けた大ばくちと見たのであろう。一擲というのは、すべてのものを一度に投げ出すことで、一擲千金とか一擲百萬とかよくいわれる。乾坤は則ち天地で、「一擲乾坤を賭する」則ち「乾坤一擲」は、天下を取るか失うか、のるかそるかの大冒険を行うことによく用いられる言葉である。